前の記事の補足です。
マッカーサーが、日本の戦争を「侵略戦争」から「自衛戦争」に考え直したきっかけは朝鮮戦争でした。
戦後、朝鮮半島は北緯38度線を境界として、韓国と北朝鮮がアメリカとソ連の後ろ盾で小競り合いを繰り返していました。
昭和25(1950)年6月25日、北朝鮮軍が電撃的な「南侵」を開始し朝鮮戦争が始まりました。
韓国軍は次々と撃破され、あっという間に韓国各地が北朝鮮軍の手に落ちましたが、日本に進駐していた米軍、更に国連軍が韓国に派兵し支援しました。
しかし勢いに乗る北朝鮮軍は遂に米韓連合軍を釜山周辺に迄追い詰めました。
このとき、北朝鮮による半島の統一が目前でした。
しかし、北朝鮮軍後方に上陸作戦に成功させた米軍が挟み撃ちにした事で形勢は逆転し、今度は米韓連合軍が北朝鮮軍を中国・北朝鮮国境近くにまで追い詰めました。
このとき韓国により半島の統一が目前に迫りました。
しかし今度は、中国が北朝鮮救援を名目に軍事介入し、義勇軍として北朝鮮軍と共に米韓連合軍を南へと押し戻し、昭和26年春頃には再び北緯38度線付近で膠着状態に入りました。
38度線での膠着状態を打破すべく国連軍が北朝鮮・中国連合軍を攻撃しても、背後にある満州が基地として機能しソ連・中国が控えている以上、戦況は全く好転しないという事によってマッカーサーは初めて、満州を押さえた日本の戦争は「自衛戦争」だったのだと気付いたのです。
そこで次にマッカーサーが立案した作戦は核も含めた満州爆撃でした。
過去に日本が経験した、支那事変の時に米英から中国・蒋介石政権に軍需物資が送られて戦況が膠着状態に陥ったのと同じ状態になり、38度線の膠着状態を打開する作戦を考える事で日本の立場が初めて理解出来たのでしょう。
日本にとって、朝鮮半島と満州は「国家の生命線」です。
ここが敵対する勢力に支配されれば、それは国家存亡の危機に直結するという事をマッカーサーは知ったのです。
だから日本は、清国の朝鮮半島に対する干渉を排除する為に「日清戦争」を戦い、ロシア帝国の干渉を排除するために「日露戦争」を戦かったわけです。
[0回]