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今日で対米戦開戦からちょうど67年になります。

少し前に紹介した「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国に繋がるやも知れぬ。」という発言があったのが1941年の11月30日で続く12月1日の御前会議で正式に開戦が決定されました。

そして12月2日「新高山ノボレ 一二〇八」の電文が連合艦隊に向けて発せられました。

12月8日

0時40分:搭乗員が赤飯、お頭付き、勝栗を食した後「飛行機発動」命令が下る。

1時30分(現地時間午前6時):「発艦はじめ」の命令で第一次攻撃隊183機が約15分で発艦。

2時00分:編隊を組み終えて真珠湾に向け移動。

第一次攻撃は水平爆撃隊の隊長「淵田美津雄中佐」が信号弾による合図をし、各隊が攻撃を開始する段取りでした。
その内容は。
信号弾1発「奇襲」・・・敵の攻撃がないときは雷撃隊が高度10メートルまで降下して魚雷攻撃をかける。
信号弾2発「強襲」・・・敵が応戦してきた場合はまず降下爆撃隊が対空砲火を制圧した後に、残りの隊が攻撃を開始する。
というものでした。

3時00分:偵察機が真珠湾上空に到着し米軍艦船の位置や天候などを報告

3時09分:淵田中佐は「奇襲攻撃」と判断し信号弾1発を発射

雷撃隊は高度を下げ、降下爆撃隊は上昇し、攻撃態勢に移行するも速度の速い制空隊は信号弾を発見できなかったため淵田中佐は再度制空隊に向け信号弾を1発発射。
都合2発の信号弾を発射したため降下爆撃隊の高橋赫一少佐は「強襲」と判断し降下体勢移行。

3時19分:淵田中佐はやむなく「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を発信。

3時23分:淵田中佐は旗艦赤城に向け「トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」を打電。

3時25分:現地時間で7時55分、高橋赫一少佐がホイラー飛行場に落とした250キロ爆弾の初弾に続き、奇襲攻撃を開始。

その後3年8ヶ月余に及ぶ太平洋戦争が開始された瞬間でした。

この真珠湾攻撃にて初弾を叩き込んだのは、当時35歳だった徳島県池田町生まれの高橋赫一少佐でした。

高橋少佐の誕生日は11月29日なのですが、真珠湾に向かう海上の空母「翔鶴」にて同じ日に次男の誕生があり艦内放送で紹介されたそうです。

この高橋少佐が開戦前に言ったと言われる言葉を紹介します。

「世界で一番金持ちのアメリカ・イギリスと戦争をすれば、日本中の軍事施設、工場、そして大都会と次々に空爆され、日本は大変な事になってしまう」

「支那人をチャンコロと馬鹿にするのはいけない。負けても負けても立て直して戦いを仕掛けてくる支那という国は、本当は強いのだ」

「白人の乗った飛行機が体当たりするように突っ込んでくる。勇敢な連中だ。侮ってはいけない」

この言葉からも日本の先行きを案ずる気持ちが感じられるように思います。

高橋少佐は真珠湾攻撃の翌年1942年の5月8日に珊瑚海海戦にて米海軍空母レキシントンに攻撃を命中させた後、戦果の確認と友軍機の集合の目印となるために上空を旋回中に、米軍戦闘機に撃墜され戦死しています。
 

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 俺が8月11日に書いたブログ「北のひめゆり」に関した話を少し紹介します。

 「北のひめゆり」とよばれる樺太の真岡郵便局での電話交換手9人の集団自決は今回ドラマ化もされたことで少しは世に知られる事になったと思いますが、樺太ではもうひとつ「炭鉱病院の看護婦の集団自決」という悲劇的なエピソードが残されています。

 1945(昭和20)年8月16日、激しい空襲に遭い焼け出された大平炭鉱病院の高橋婦長は、22人の看護婦を伴い重傷患者達を守りながら上恵須取町を目指して避難していました。
 ところがソ連軍の進軍は早く、最後には包囲されてしまい逃げ場を失ったのです。
 高橋婦長は「年ごろの娘を預かった。無事に帰せないなら死を選ぶしかない」と自決を覚悟しました。
 生き残った人の証言では、婦長は「わたしが至らないばかりに」「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も何度も繰り返していたといいます。
 そして病院から持ち出した劇薬を飲みました。
 この劇薬というのも、実は睡眠薬だったようで死ねない者は手術用のメスで手首を切ったのです。
 生き残った人の証言では「メスが入る感触を今でも覚えているが、あの世にいったら、みんなに会えると思っていたので抵抗感はなかった」と言います。
 そして、小高い丘の上の大きなハルニレの木の下で「君が代」などを歌いながら最期の別れをしたと・・・。
 23人の内、そのときに亡くなったのは婦長を含む18歳~32歳までの6人で、後の17人は幸いにも近くの人に助けられ一命をとりとめました。

 余談ですが、真岡郵便局の電話交換手を慰霊した「殉職九人の乙女の碑」に書かれていた碑文は一度書き直されています。

 最初の碑文では「昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。戦争は二度と繰り返すまじ 平和の祈りをこめて ここに九人の乙女の霊を慰む」となっていましたが。

 書き直された後の碑文は「戦いは終わった それから五日 昭和二十年八月二十日 ソ連軍が樺太真岡に上陸を開始しようとした その時突如日本軍との間に戦いが始まった 戦火と化した真岡の町 その中で交換台に向った九人の乙女らは死を以って己の職場を守った 窓越しに見る砲弾の炸裂 刻々迫る身の危険 今はこれまでと死の交換台に向かい「皆さんこれが最後ですさようなら さようなら」の言葉を残して静かに青酸カリをのみ 夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争はふたたび くりかえすまじ 平和の祈りをこめ尊き九人の乙女の霊を慰む」となっています。

 書き直された理由は、真岡郵便局の当時の上司だった上田豊三さんの証言で「軍の命令で交換手を引き揚げさせることができなかったから、結局、軍が彼女らを死に追いやったといわれているが、これは事実無根です。純粋な気持で最後まで職場を守り通そうとしたのであって、それを軍の命令でというのはこの人たちを冒涜するのもはなはだしい」と語ったからです。

 上田さんの証言では、昭和20年8月16日に女子職員の緊急疎開の指示が入ったので全員にその旨を通知したが、「全員が応じない」との報告が帰ってきたので女子職員を集めて、ソ連軍侵攻で予想される事態を話して説得したが、「電話の機能が止まった場合どうなるか、重要な職務にある者としてそれは忍びない」と主張して譲らなかったという。
 女子職員の言葉に感動したが肯定することはできないので、小笠原丸が真岡に入港したらそれに乗船させて疎開させる決意を固めていたが、結局入港前にソ連軍が上陸してしまい、間に合わなかったと。

 最後に、上田さんの話しでは「あらゆる階層の人達が慌てふためき、泣き叫び、逃げまどっていた中で、郵便局の交換室、ただ1ヵ所で、彼女らがキリリとした身なりで活動を続けていたのである。このようなことが他人の命令でできる事かどうか。その1点を考えても判ることだ。崇高な使命以外に無い」 と証言し、日本軍の命令で自決したという部分が書き直されたのです。

 

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今日は広島に原爆が落とされてから63回目の原爆の日です。

この原爆による死者を慰霊するために建てられた慰霊碑の碑文に「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と書かれているのは有名で、誰でも一度は聞いた事があるんじゃないでしょうか。

この碑文の文章に激怒したといわれる、インドのラダ・ビノード・パール博士(パール判事)の言葉を紹介します。   

パール判事といえば太平洋戦争の後に行われた東京裁判にて、敗戦国である日本を一方的に侵略国と決め付けて裁く裁判は歴史の捏造だといい最後まで裁判の無効を主張して、後に東京裁判の最大の犠牲者は「法の真理」であると言った人です。

この「過ちは繰返さぬ」という「過ち」は誰の行為を指しているのか?

日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。

それがどんな「過ち」なのか、私は疑う。

ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。

落した者が責任の所在を明らかにして「二度と再びこの過ちは犯さぬ」と言うならうなずける。

この「過ち」が、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。

その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。

さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。

アメリカこそ開戦の責任者である。

パール判事は昭和25年に広島を訪れた際に、碑文を読んでこのようなコメントを残しました。
その後に広島の慰霊碑の碑文に代わる詩を自ら考えたものがあるので紹介します。

激動し変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の思いを抱いて死んでいった

しかし 大地深く打ち込まれた悲願は消えない

抑圧されたアジアの解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ

ああ 真理よ

あなたは我が心の中に在る

その啓示に従って我は進む

1952年11月5日 ラダ・ビノード・パール 

 

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