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高校生の歴史教科書の中で太平洋戦争末期に沖縄で起こった集団自決に関する記述を巡り、一度済んだ検定を覆すデモが起こり大きく報道されました。

ここで争点になったのは、日本軍の関与があったかどうかですが・・・この件については様々な証言があるものの、日本軍の組織的な命令を裏付ける資料は全く無いのも事実です・・・が、デモ参加者たちの主張によれば日本軍の証拠隠滅が完璧だったからだと言っています。

ここでマスコミに取り上げられない、ある証言を紹介します。

戦後の昭和24年に沖縄県座間味村で生まれた宮城晴美さんの証言です。
(以下要点のみ)

私の母・宮城初枝は、1921(大正10)年7月、慶良間諸島の一つ、座間味島に生まれました。
太平洋戦争末期の沖縄戦でいち早く米軍に上陸され、住民の「集団自決」が起こった島です。
当時24歳で、村の役場に勤めていた母は、女子青年団員の一人として座間味島駐留の日本軍と行動をともにし、米軍との銃撃戦に巻き込まれた経験をもちますが、さらに「集団自決」の“当事者”でもあったと言えます。

母は、「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノートを私に託し、その半年後、69年の生涯を閉じてしまいました。
自らの戦争体験を日を追って具体的につづったものでした。
実は母は、このノートに書いた大部分のことはすでに発表していました。
「沖縄敗戦秘録・悲劇の座間味島」という本(私家版)に、「血ぬられた座間味島」と題して収録されていたのです。

母はこの「悲劇の座間味島」と、ノートを私の目の前に開き、どこがどう違うのか説明をはじめました。
事実と違う、あるいは書けなかったことを、今回は書いたという部分が8カ所ありました。
村の指導者の行動や、自らが米軍の「捕虜」となったときの取り調べの内容など、本には載ってないことが具体的につけ加えられていました。

とりわけ、本に収録された手記にあった、当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」の箇所の削除を指示する母の表情には、険しさが感じられました。
「座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命令によるもの」という根拠の一つとされ、母の戦後の人生を翻弄した数行だったのです。

事実はそうではなかった。
母は自分の“証言”がもとで、梅澤元部隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後35年経ったある日、梅澤氏に面会して「あなたが命令したのではありません」と〝告白〟しました。
しかしそのことが思わぬ結果を招き、母は心身ともに追いつめられることになるのです。
改めて事実を記した手記を出版することで、母は“証言”をくつがえそうとしました。
母は、私にノートを手渡しながら、「これはあくまでも個人の体験なので、歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表してね」と言い、私も軽く引き受けたのです。
でもその時は、そんなに早く母が逝ってしまうとは、夢にも思いませんでした。

なぜ母は事実と違うことを書かなければならなかったのか。
また事実を〝告白〟したことで母に何があったのか─。
それを調べていくうちにわかったことは、「国家」の戦争責任は不問に付され、戦後の何十年もの間、〝当事者〟同士が傷つけあってきたということでした。


上記証言の中で紹介しています、元座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長と面会したときの事をこう記しています。

母はもう一度、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅渾隊長にそのまま帰されました。 命令したのは梅澤さんではありません」 と言うと、驚いたように目を大きく見開き、身体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。 
母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言いつづけ、やがて鳴咽した。 
母は、はじめて「男泣き」という言葉の意味を知った。 
梅澤氏は安堵したのかそれから饒舌になり、週刊誌で「集団自決」命令の当事者にされたあと職場におれなくなって仕事を転々としたことや、息子が父親に反抗し、家庭が崩壊したことなど、これまでいかにつらい思いをしたか、涙を流しながら切々と母に語った。


これは数ある証言の中の一つですが、貴重な物ではないかと思います。

軍人も民間人も共に戦いながらも、軍人の遺族には年金が支給されるのに自決して亡くなった住民の遺族には年金も手当ても支給されない事から、偽った証言をせざるを得なかったという事を明かされたのは、今までの歴史教科書の記述を訂正するためではなく、証言によって辛い思いをした人たちに対する気持ちからだとは思います。
でも、新しい事実が判ったのであれば教科書の記述のみならず歴史の通説も変わるべきではないでしょうか。

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