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今年2007年は、1937年の南京攻略から70周年となる年なので、南京攻略に関連した映画が多数作られているようです。 中国の陸川監督による「南京!南京!」 そして日本でも、「南京の真実(仮題)」が製作されるようです。 南京攻略に際して「南京大虐殺」もしくは「南京虐殺」があったのかどうか、詳しく検証しているサイトが数多くありますのでここでは触れませんが、確かな証拠も無く映画化されて、あたかも史実だったかのように世界に認識されてしまってもいいのでしょうか? ここで紹介する動画も、当時の日本が撮影したものなので中立的なものだとは考えられませんが、当時の南京攻略直後の南京の状態を映した貴重なものです。(元ネタ)
↓やしきたかじんの番組で、南京虐殺があったのかどうかを討論したときの動画です。 小規模の戦争犯罪があったのかどうかも判りませんが、中国側の意見を聞いたままでは、ナチスドイツがユダヤ人の民族抹殺をしようとしたホロコーストと南京事件を同列に扱われてしまいます。 南京虐殺があったかどうかについては、結論ありきじゃなく、日本人ももっと考えてみてはどうでしょうか? PR このようなニュースが報道されていました。 インドネシアといえば、建国の父とも呼ばれている「スカルノ大統領」(デヴィ夫人の夫ですね)が有名ですが、スカルノ大統領も「我々が独立を勝ち得たのは、日本があれだけ戦ったのだから、同じアジア人の我々に同じ事が出来ないはずはないと思って発憤したからである」と発言しています。 インドネシアのサンバス将軍の発言 「村山談話(わが国は深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。などと、過去の過ちとか、反省とかの発言を連発していた)は、植民地支配主義の打倒を諦めた事になる。」 「村山首相は歴史上で日本の果たしてきた事実を踏まえて、アジア・アフリカの独立への悲願を、そして、まだ残る植民地支配主義を攻撃するべきだった。」 「かつての日本は、スカルノ、ムハマッドハッタ、ドクター・バー・モウ、ホセ・ラウレル、アキノ、汪兆銘、スバス・チャンドラ・ボースなどを応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れ去ってしまったのは遺憾である」 アジア各国が列席する軍事会議の席で、フィリピンと韓国の代表が、戦争当時の日本を罵倒する演説を延々と行ったときに、同席していた他国の親日家たちが「韓国代表の演説は痛烈無残で聞くに堪えなかった。だが、列席の日本人は一言も発しなかった」と言って悔しがっていたときに、インドネシアのアリ・ムルトポ准将が下記のように発言しています。 「日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである」 「今、忽然と日本が地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困り、そして韓国が一番困るだろう。韓国は工業大国の日本と競争したからこそ、立派な工業国になれたのだ」 「もし、日本の位置が今のシンガポール辺りの地域にあったならば、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等活用することができる。だから企業の成功は容易である。つまり、韓国のように日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。経済的支援を永久的に受けていると言っても言い過ぎではないだろう。もっとインドネシアの位置が日本に近ければ、今のような貧しいインドネシアではない」 「つまり、我々インドネシア人は、日本はなにもしてくれなくてもいいと考えている。日本は欧米と肩を並べているだけで充分アジアやアフリカに尽くしているだろう。だから、我々アジア人は外交面で弱い立場の日本を支援したいと思っている。日本から援助を貰うだけで何もしないのでは運命共同体とは言えないし、対等のパートナーであるとも言えないのではないだろうか」 実は、インドネシアに関連した映画で隠れた名作があります。 この映画、大東亜戦争を美化しようとするものだという評価を押し付けられて、日本映画界からは黙殺されたような形になっていますが、結構面白い映画なのでお勧めしたいと思います。 韓国以外のアジアにも、もっと目を向けたいものです。 12月25日をもって横浜マリンタワーと氷川丸の営業が停止、年内に会社は解散するというニュースが流されました。 ↓公式ホームページ(トップページに関連記事) 氷川丸の生い立ちは公式ホームページに詳しく書かれていますが、ざっと挙げますと… 昭和5年4月25日:1万2千トンの貨客船として竣工、埼玉県大宮市の氷川神社の名をとり氷川丸と命名。 昭和7年5月:シアトル航路に就航、料理が美味しいとの評判もあり喜劇王チャップリンが乗船 昭和16年12月:日華事変や太平洋戦争開戦の影響を受け海軍に徴用され、特設病院船に改装 昭和20年10月:終戦と共に南太平洋艦隊日本船舶管理部(スカジャップ)の管理下に 昭和22年1月:貨客船として北海道航路に就航、横浜経由で関西と北海道を結ぶ 昭和24年7月:北海道航路から外国不定期航路に移行 昭和25年4月:船舶運営会が解散後日本郵船に復帰 昭和27年2月:欧州定期航路が解禁後、欧州航路に配船、定期貨客船に復帰 昭和28年7月:いシアトル航路の定期貨客船に復帰、戦争中もコックとボーイを降ろさずにサービスの精神を守っていた為に終戦後も行き続けるサービスと、新造船にはない風格に人気を集める 昭和35年8月27日:横浜から最後の航海に出航 昭和35年10月3日:最終目的地の神戸港に入港、遂に現役を引退 昭和36年2月:「氷川丸観光株式会社」が発足、6月には海の教室兼ユースホステルに改装 昭和42年:マリンタワーと合併し、「氷川丸マリンタワー株式会社」となり観光スポットになる 平成18年12月25日:横浜マリンタワーと共に氷川丸も営業が終了 ここで氷川丸が<奇跡の船>と言われる由縁ですが… 昭和20年2月:コレヒドールで機銃掃射を受けたものの犠牲者無し。 昭和18年10月3日:スラバヤ港外で船尾に機雷が接触し爆発するも犠牲者無し 昭和19年7月15日:カロリン諸島のルットール水道で船首に機雷が2発接触し爆発。船倉に浸水するも自力で脱出し犠牲者無し 昭和20年2月14日:シンガポール港外で船尾に機雷が接触し爆発、船倉に浸水するも無事に脱出し犠牲者無し 昭和20年7月29日:氷川丸の機関庫手と二等操機手が舞鶴に公務で上陸中、被爆・戦死(この2人が氷川丸の乗員では唯一の戦闘による戦死者です)。 このように、接触する場所によっては戦艦さえも沈めてしまう機雷に3度も接触し、病院船なのに連合軍からの機銃照射を受け、同型・同用途の船が殆ど沈められた(以前紹介した阿波丸事件など)にも関わらず、直接の戦闘による死者が皆無だというのは奇跡と表現しても問題はないでしょう。 俺自身、横浜には行った事が無く、当然「氷川丸」も観たことがないので、今回の営業停止は残念です。 どこかでまた「氷川丸」が公開されるように願っています。 Copyright © [ 新撰組つれなのふりや ] All Rights Reserved. http://blueshinsengumi.blog.shinobi.jp/ |