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最近ネットにこういうものが流れています。 慰安婦の登録を告知するものです。 しかも・・・ 1961年9月1日付・東亜日報 なんと、韓国政府が告知しているものらしいのです。 関連記事→ 「政府が慰安婦募集をしたハングル新聞」(エンジョイコリア翻訳掲示板) ↓新聞記事の訳文 <UN軍相対慰安婦13日から登録実施> ソウル市警では市社会局に「国連軍相手慰安婦性病管理士業界」計画によって三日から国連軍相手慰安婦の登録を官下一線署に伝達して実施している。 日本軍が残した悪しき風習だという韓国側の読者のコメントが哀れですね。 この国は、いつになったら真実に気づくのでしょうか? PR イラク戦争が始まってから、もう4年になるようです。 当時のロンメルの副官を勤めていたたテオドル・ヴェルナーの証言が残されています。 「なによりも先ず、生命の損失を少なくすること!」 「血を流すより汗を流せ!」 「敵を包囲した場合は、撃滅を作戦目的にする必要は無い。敵の物的戦力の消耗と指揮系統や団結力・士気の破壊が目的でなければならない。」 「偵察の結果に迅速に対応して的確に部隊を指揮する事が戦闘の勝敗を決める。」 「自軍の補給路を確保し、敵の補給を撹乱する事は戦略上で最重要である。」 「ゲリラ戦では報復手段をとれば、その地域一帯の全住民を刺激するだけだ。犠牲者は殉教者にされ、さらに抵抗を激化させるだけである。」 英軍がロンメル将軍を評した言葉です。 彼は捕虜に対しては、国際法を遵守して非常に丁重に扱いました。 ロンメルの捕虜となったデズモンド・ヤング准将は戦後、ロンメルの伝記を著作するほど心酔し、後に「砂漠の鬼将軍」として映画化されました。 ロンメルの最期は、まだ第2次大戦中にヒトラー暗殺を企てたという疑いをかけられ、自宅で毒を飲まされたのです。 昭和16年の大晦日、藤原少佐はモハーンシン大尉からインド国民軍(INA)の創設の話しを切り出されました。 昭和17年2月15日、シンガポールはINAによって陥落し、英軍のパーシバル将軍が降伏文書にサインして戦闘は終結し、ここでインド人待望の国軍が公然と認知されたのです。 「親愛なるインド兵諸君!」 この演説は、INAにとって歴史的イベントになったのと同時に、インド独立運動史に残る歴史的な宣言になりました。 昭和17年4月、谷豊(マレーの虎・ハリマオ)の死後、藤原少佐は帰任の指令を受けて南方戦線から離れることになりました。 インパール作戦でマラリアに冒された藤原参謀は、病床で日本の敗戦の報せを聞きました。 生き残った藤原参謀はインドの首都デリーで開かれる軍事法廷に呼び出されましたが、自決の為に隠し持っていた青酸カリを棄て、ある決意を胸に軍事法定に挑んだのです。 「わがインド工作は単なる謀略ではない。陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現すべく身をもって実践したことを強調しなければならない」 デリー市内のレッド・フォートに収容された藤原参謀は、裁判で主席弁護士を務めるデサイ博士から次のように囁かれたと言っています。 結果はデサイ博士の言う通りで、英国によるINA軍事法廷はインド国民の独立への追い風となりました。 昭和20年11月に第1回の法廷が開かれた時には、主要都市で民衆が蜂起し、カルカッタでのデモは10万人が参加しました。 第2回の法廷が開かれた際には、各地で「INAの英雄(藤原参謀)を救え」の大合唱が続き、、遂には英軍の艦船20隻が叛乱軍に奪われるという事態にもまで発展しました。 藤原参謀はインドを離れると、今度はシンガポールで尋問されましたが、そこでも罪に問われることはありませんでした。 英軍の尋問官が藤原参謀に言った言葉が残されています。 藤原岩市はINA創設の中心人物、モハーンシン将軍とは、昭和29年にインドを訪問した時に再会し、将軍と一緒にシーク教徒の聖地ゴールデン・テンプル(黄金寺院)に招かれて、民衆から歓迎を受け、盛大な式典が行われました。 その後、藤原参謀は、自衛隊で陸将を務めた後、昭和61年に亡くなりました。 Copyright © [ 新撰組つれなのふりや ] All Rights Reserved. http://blueshinsengumi.blog.shinobi.jp/ |