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F機関と繋がりが深く有名なエピソードとして、マレーの虎・怪傑ハリマオがいます。

ハリマオとは実在の人物で、谷豊という日本人なのです。

谷豊は明治44年に九州福岡の谷家の長男として生まれ、豊が満1歳になった頃、谷一家は英領マレーのトレンガヌに移住し、谷理髪店を開業して成功しました。
父親が、子供に教育は日本で受けさせたいと考えていたので、豊が学齢期のときに一旦帰国(祖父母の家に滞在)しましたが、帰国子女として馴染めず、いじめ等にも逢った様で、再びマレーシアへ戻り、マレー人の友人たちとともに青春を過ごしました。
豊はマレー人の仲間のあいだでは「ママ」と呼ばれていました。
マレー語で「おじさん」という意味ですが、マレー人の仲間たちは親しみと尊敬の意味で豊をそう呼んでいたので、豊はグループのリーダー格であった様です。

昭和6年(1931年)、19歳のとき、豊は徴兵検査を受けるため、再び帰国しました。
しかし、豊は「国民兵役に適するも現役に適しない」丙種合格扱いになったので、戦時事変の際だけ召集されるのを待つ身となり、日本人になる機会を失いました。
この後、豊はマレーには戻らずに日本ゴムの工場に就職しました。
それから程なく、満州事変をきっかけにマレー半島の各地で排日暴動が起こり、日本人の経営する店が次々に襲撃される事件が多発しました。

排日暴動の暴徒は谷理髪店も襲い、風邪で寝ていた妹が斬殺され、しかも暴徒は妹の首を持ち去り、晒しものにまでしました。
後に、妹の首は隣家の歯科医が取り戻すと、遺体と縫い合わせたといいます。
谷一家は日本へ引き揚げ、帰国した母親から事件のことを聞いた豊は激怒し、単身再びマレーシアへと向かいました。

英国官憲が被害者の日本人に対して冷淡で、妹を殺した犯人についても証拠不十分で無罪となっている事から、暴徒を取り締まれなかった英国に対して豊が怒りを覚え、秘かに華僑や英国人への復讐を誓い、友人達と盗賊団を組織して英国人の家を襲い始めたのです。
盗賊団としての活動は数年間続きましたが、その内容は、絶対に人に危害を加える事はなく、金品を盗むだけでした。
そして盗んだ物は部下にばら撒き、私腹を肥やす事はしなかったといいます。
盗賊団の人数は50人を下らず、裕福だった英国人の家ばかりを襲ったので、貧しいマレーの人々の間では義賊と呼ばれていました。

この活動を知った「F機関」が谷豊に接触し(これがハリマオ工作と言われる)、すでに30歳近かった豊は「F機関」に協力する事を決断しました。
このときも豊は、妹の殺害事件で日本政府に陳情しても「あきらめろ」と言われた事や「盗賊になるなど日本人の恥晒しだ」と非難され、日本という国から見捨てられたからと断ったのだが、「マレーをマレー人の手に戻す事」「マレーが白人により400年支配されつづけている事」「日本がマレーを植民地支配から開放するには現地人の力が必要だという事」そして最後に「小金を奪えば盗賊だが、国を奪えば英雄だ」と説得され、決心したと言います。

豊とその一味の任務は、英軍がマレー半島を南下しシンガポールまで撤退する際に退路にある施設を破壊したり、撤退時に仕掛けられた爆弾を解除する事でした。
「いかなる攻撃でも3ヵ月は持ちこたえる」と英軍が豪語していた「ジットラ・ライン」をわずか2日で突破したのは谷豊の要塞建設遅延工作が実った結果として有名です。

谷豊の存在を知りながらも会った事がなかった藤原少佐は、たまたま小さな村で作戦行動中の豊と面会が叶いました。
そして、藤原少佐が谷豊の功績を称えると、豊はこう答えました。
「大したことはありません。ペクラ河の橋梁の爆破装置の撤去は一日違いで手遅れとなって相済みませんでした。それから山伝いに英軍の背後に出て参りましたが、日本軍の進撃が余りに早いので遅れがちになって思う存分働けなかったのが残念です。この付近では英軍の電線を切ったり、ゴム林の中に潜んでいるマレイ人に宣伝したり致しましたが、日本軍の為にどれだけお役に立てたことでしょうか」

これに対し藤原少佐は。
「君のこのたびの働きは、戦場に戦っている将校や、兵にも優る功績なんだよ」
豊は藤原の言葉を聞くと眼に涙を浮かべながら、答えました。
「有り難うございます。豊は一生懸命働きます。私の命は死んでも惜しくない命です。機関長の部下となり、立派な日本男児になって死ねるなら、これ以上の本望はございません」

この工作活動中に、マラリアに冒されながらも忠実に任務を遂行し続けた豊でしたが、1月末には重体となって病院に入院する事になりました。
豊が入院している間に藤原少佐は、豊を軍属にすることを請願し、シンガポール陥落の数日後に豊は下士官待遇として陸軍病院に移されました。
そのときに藤原少佐は、こう言っています。
「一人として大切でない部下はいない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な運命とこの度の悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私も諦めきれるけれども、病死させたのでは諦めきれない。絶対に病死させるな」

病床で、盗賊として日本の恥さらしとまで言われた自分が、晴れて軍属となったことを知らされた豊は感激し「私が、谷が、日本の官吏さんになれますんですか。官吏さんに」と、涙をこぼしながら何度も繰り返していたと伝えられる。
そして、昭和17年3月17日夜、豊は数人のマレー人の仲間に看取られて静かに息を引き取りました。
そのとき病院の外では大勢の仲間たちが待っていました。

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